『3大テノール 夢のコンサート』

3大テノールについて

『3大テノール 夢のコンサート』

プラシド・ドミンゴ

1941 年、スペインのマドリード生まれ。両親はスペイン版オペレッタとでもいうべき“サルスエラ”の歌手でした。8 歳の時にメキシコに移住、メキシコシティの国立音楽院で学び、59 年メキシコ国立歌劇場でデビュー。65 年にニューヨーク・シティ・オペラと契約。67 年にはウィーン国立歌劇場にデビューし、またたく間に世界中の有名歌劇場を席巻して名声を確立しました。
豊かなバリトンの音域も兼ね備えた特筆すべき多様性をもつテノールであり、極めて広汎な演目をレパートリーとしています。80 年代にはその素晴らしい演技力で数々のオペラ映画にも主演。90 年代は“3大テノール”としても活動し、世界的な人気を得ました。
1985 年のメキシコ大地震で親しい人々を喪う経験をしているドミンゴは、2011 年の東日本大震災の直後、原発事故の影響で海外アーティストの来日中止が相次ぐなか、来日公演を敢行。アンコールで観客と共に日本語で歌った《ふるさと》は大きな感動を呼びました。
最近では指揮者として、またオペラハウスの芸術監督としても八面六臂の活躍を見せ、その音楽活動は豊かな結実の時を迎えています。

ホセ・カレーラス

1946 年、スペインのバルセロナ生まれ。幼少時より子役でオペラの舞台を経験、バルセロナの名門リセウ音楽院に学び、『ノルマ』のフラヴィオでリセウ劇場にデビュー。共演した著名なソプラノ歌手モンセラート・カバリェに評価され、共演を重ねてキャリアを積みました。
73 年にイタリア歌劇団の一員として来日、『椿姫』のアルフレードを歌い鮮烈な印象を残すと、翌74 年には、ウィーン国立歌劇場、コヴェントガーデン、メトロポリタン歌劇場と、立て続けにヴェルディの主役でデビュー。パヴァロッティ、ドミンゴに続くスター・テノールとして評価を確立します。
しかし、キャリアの頂点にあった1987 年に白血病に倒れ、回復の見込みが10%と診断されるなかで病と闘い、手術の末に奇跡的に生還を果たします。キャリアに復帰したカレーラスは白血病の研究と骨髄提供者の登録事業を支援する「ホセ・カレーラス国際白血病財団」を設立。財団の寄金のため、復帰コンサートをパヴァロッティとドミンゴと共演して行うという構想が実現したのが、“3大テノール”のスタートとなりました。
現在も意欲的に歌手活動を続け、2014 年には12 年ぶりにオペラの舞台に復帰。ほぼ毎年来日を重ね、日本のファンにもその情熱的な歌声を届けています。

ルチアーノ・パヴァロッティ

1935 年、イタリアのモデナ生まれ。母親が働いていたタバコ工場では、名ソプラノ歌手ミレッラ・フレーニの母親も働いており、ミレッラとは同じ乳母に育てられました。
61 年『ラ・ボエーム』のロドルフォでデビュー。65 年には『リゴレット』のマントヴァ公爵でミラノ・スカラ座に初登場。72 年、メトロポリタン歌劇場での『連隊の娘』のトニオ役で、ハイC を9 回苦もなく歌って聴衆を熱狂の渦に巻き込み、キング・オブ・ハイCの異名の由来となりました。圧倒的な輝かしい歌声で20世紀最高のテノールと評されます。
90 年代、メトロポリタン歌劇場の大スターとして、また3 大テノールの一人としても爆発的な人気を集め、93 年にニューヨークのセントラル・パークで行われたコンサートでは、50 万人の聴衆を集めました。
2004 年、メトロポリタン歌劇場における『トスカ』のカヴァラドッシを最後にオペラ上演からは引退。2006 年のトリノ冬季オリンピック開会式で歌った《誰も寝てはならぬ》が最後のステージとなりました。
2007 年9 月6 日に故郷で逝去。モデナの大聖堂で行なわれた葬儀ではイタリア首相をはじめ、数々の著名人はもとより、市民ら約10 万人が集まり弔意を表しました。


『3大テノール 夢のコンサート』公式サイト
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