19世紀末の長崎を舞台に異国情緒豊かに描いた作品。過酷な運命の中でひたすら愛を貫いていくという悲劇的なメロドラマである。日本の曲をたぶんに利用し、エキゾティックな雰囲気を作り上げている。
原作はジョン・ルーサー・ロング(1861ー1927)の小説『蝶々夫人』で、大の日本びいきで生涯に日本を舞台とした小説や戯曲を書いているが、日本を訪れた事はない。彼の姉が日本に住んでいたので、姉から日本の知識を得て、日本物専門の作家と見られるまでに至った。小説『蝶々夫人』は姉が出入りの商人から聞いた実話に基づいて書かれたものだが、米国では異国趣味の流行の波にのり、当時(1897年)としては記録的なヒットとなった。
小説『蝶々夫人』では「蝶々さんは日本人により、いかに死すべきかを教えられ、また、ピンカートンにより、いかに生きて楽しむべきかを教えられたが、それが結局、彼女に死を選ばせる事になった」と記している。
プッチーニが「トスカ」のイギリスのコヴェント・ガーデンの初演に招かれた際、ロンドンで観た「蝶々夫人」の芝居に感動し、オペラ化を考えた。プッチーニ自身は「蝶々夫人」にかなりの思い入れがあり、成功を確信していたがミラノ・スカラ座での初演は大失敗に終わった。失敗の原因は、風変わりな舞台、奇妙な音楽、長すぎる第2幕など、保守的なミラノ人に受け入れられなかった上に、演出がまずかった事を理由づけている文献もある。歴史的な大失敗の中、プッチーニはくやしさに耐え「これは、私の第一の傑作だ」といい放ち、「今にこれは世界を風靡する自信がある」と慰め、「分からない客には二度と見せてやらない、この目の黒いうちはスカラ座ではこの上演は断わる」と語った。3ヶ月後に改訂版を再上演し、世界の主要な歌劇場で成功を収め、ついにはイタリア歌劇の代表的は名作として今日に至っている。プッチーニの生存中、スカラ座では上演することはなかった。
オペラ映画『蝶々夫人』は、カラヤン指揮の下、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の情感に満ち溢れた演奏、ミレッラ・フレーニのずば抜けた美声、ジャン=ピエール・ボネルの斬新なアイディアの演出、それぞれのキャラクターの持ち味を遺憾なく発揮した作品である。 |