映画監督 中田新一
「追体験するしかない」と決めて脚本づくりは始まった。なんともポリシーのない脚本づくりであった。春のことである。とにかく、車椅子バスケットの世界選手権をカメラに収めた。生き生きとプレーする選手を理解できないまま、多くの選手を取材した。なぜ彼らはあんなに明るいのか分らないまま、脚本は稿を重ねた。誰も自分だけは絶対ないと思う不慮の事故に遭い、その現実を受け入れるまでで、1本の映画ができてしまう。そしてそれを踏まえて共に生きるようになる話でもう1本できてしまう。そこまでを消化して書くだけで秋が深まってしまった。受容と共生を描くだけで終わってしまっていいのだろうか。あの明るさの謎は何も解けていない。
冬が過ぎるとヤケクソになっていた。もうバスケットをやらせるしかない。主人公を原稿の上で踊らせるように、実在の俳優を動かすしかない。乱暴な話である。あの北九州で、そこの人たちと主人公を動かしてみることで完成稿ができるのだ。その土地で主人公と生きてみようと準備に入った。3ヶ月の準備と2ヶ月の撮影時間がとれる新人を選び、早くから北九州の地へ放り込んで車椅子バスケットチームの一員として生活を始めさせた。北九州の人たちの協力で彼を囲む世界は全てそのままの現実で映画の世界ではない。孤立した主人公の役を松山ケンイチ君は戸惑ったと思う。芝居の前に車椅子を自由に扱うことだけでなく、バスケットの選手にならなくではならないのだ。しかも僕たちスタッフもまた、主人公と共に追体験をすることを始めたのだ。
車椅子の人たち、クラスメイトも全員オーディションで選ばれた北九州のホンモノの高校生。もちろんエキストラも地元の人たちである。そのうえ、北九州に入ったスタッフ、キャストにもう一つの新しい体験が待っていた。30人ものボランティアスタッフが投入されたのだ。老若男女、応募で集まった面々とスタッフは一瞬対峙した。そして撮影が開始された。オールロケーションの新しい体験が毎日展開された。ギクシャクとロケーションが始動したが、そのうち渾然一体となっていき、笑顔のなかで撮影は終了した。こんなに笑いの多い現場は初めてであった。
さて出来上がりは如何に。主人公・健太はもうひとりではない、沢山の支えあえる仲間の中できっと大きな体験をしたはずだ。そして「心」を掴んだはずだ。そしてここから健太は歩き出し、僕らの脚本も完結することができたように思う。新しい映画づくりができたように思う。後は観て頂いた皆様に少しでも健太の気持ちが、そして映画づくりの参加した者たちの想いが伝わったならば、映画は各自「イケテル、マル」と笑顔で胸を張れるのだが…。
プロフィール
1944年石川県出身。山本薩夫監督や市川昆監督など、日本映画の全盛期を支えた名匠・巨匠たちのもとで研鑽を積む。84年に、畑山博の純文学系青春ドラマ「海の降る雪」を自らの企画で映画化し、監督デビュー。86年には井上ひさし原作のベストセラー「ドン松五郎の生活」を監督。95年、いじめをテーマにしたミリオン・セラーの童話をアニメ化した「ピピ とべないホタル」(ヒューストン国際映画祭金賞)の演出を担当・99年、日中戦争時代の素材をもとに、平和の大切さをアピールした力作「チンパオ/陳宝的故事」を熊本県並び熊本市の全面協力を受け日中共同で制作。社会的な評価をえている。(アジア・フォーカス福岡映画祭1999出品作品、イラン国際映画祭特別招待作品) |
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